2023年10月10日火曜日

第6話 日本版の会はなぜ脱原発に向わずに、原発を前提とした原発事故の問題に取り組むのか(23.10.10)

第1にそれは、2011年3月の福島原発事故のあと、なぜ「ふくしま集団疎開裁判」を申し立てたのかに答えて、弁護団の井戸謙一さんが、「苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々が打ち捨てられているのをそのままにしておくことはできなかったからだ」と語っていたのを聞き、その通りだと思ったからです。私にとって、日本版は「ふくしま集団疎開裁判」の継続です。目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々のことを抜きにして、脱原発なんて言っている場合ではないと思ったからです。 

けれど、脱原発に熱心に取り組んでいる人たちからみると、日本版の会はなにか不純に見える。なぜなら、日本版の会では脱原発は口にせず、もっぱら原発がもたらす原発事故の問題に取り組んでいるから。脱原発かどうかを気にする人にとっては、日本版の会はむしろ原発の存続を前提としているかのようにさえ見える。

確かに、日本版の会は個々のメンバーの信念は別にして、会として脱原発を掲げない。そして、原発事故が起きた時のことだけに集中して問題解決を論じているから、見る人によっては日本版の会は原発容認派みたいに見える。

脱原発を人類が選択すべき最も重要な善(正義)と考える人にとって、原発の存在は悪(不正義)であり、そこから見ると、原発を前提にしているかのように見える日本版の会はむしろ悪(不正義)に加担しているのではないかと訝られたとしても不思議ではない。

では、なぜ、このような不純だと非難されるような振舞いを日本版の会はしているのか。

それは、第1に、上に書いた通り、目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々がいるからです。
のみならず、さらにもう一つ理由があります。それは、私たちは善を知覚するためには、善を通じてではなく、善とは反対の、悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できる、そう(私が)考えているからです。

つまり、私たちは善(脱原発)を知覚するためには、善(脱原発)を通じてではなく、善とは反対の、悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じてのみ準備できると考えているからです。

この立場を明らかにしたのがドイツの作家ミヒャエル・エンデ、ソ連の映像監督タフコフスキーたちだ。彼等は、人間という矛盾に満ちた厄介な生き物の全体像をつぶさに観察した末に、人間に対しこうした認識を獲得した。 また、本来、美を追求するはずの芸術がなにゆえ、他方で、シェークスピアの「リア王」や「リチャード三世」ひとつとってもそうであるが、ゴヤの絵をひとつとってもそうであるように、これでもかと言わんばかりに、かくも人間の醜さ、虚偽を、かくも悪党の悪党振りを情け容赦なく描くのか。その訳は、芸術は、人々の中に善を知覚させるためには、その反対の悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できることをシェークスピアたちは知っていたからです。

日本版の取組みも、或る意味で、悪党の中のとびきりの悪党を描き切った「リチャード三世」やゴヤの絵に似ている。原発事故を契機にそれまでうわべで取り繕っていた連中が仮面をかなぐり捨てて、あらんかぎりの耐え難いほどの悪や犯罪に走る。その悪党のなれの果てをトコトン追求することを通じて、つまり悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じて人々の中に善(脱原発)を知覚させるのである。

 【参考】

「リチャード三世」の解説ー>こちら

 ゴヤの絵




第5話(増補版) 日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけだ。(23.10.10→10.14)

これは今まで誰も、当の私ですら思い描いたことのなかったこと。先週、北茨城市に滞在して、家の補修工事をやっている最中に、ふと想到したこと。しかし、ひとたびこれに気がついた時、その瞬間、その正しさを、私の身体の中で、全身全霊で確信するに至った。以下、その核心部分だけを示す。

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前置き
日本版の制定を世の中に最初に呼びかけたお母さんは、何度も呟いた。
「日本版を制定するのはマッターホルンの頂上に登るようなもの」
それくらい大変なんですという思いを込めて。

その時は、きっとそうなんだろうなと思い、黙って聞いていた。 それから6年経った今、
「それは勘違い。なぜなら、私たちはすでにもうマッターホルンの頂上に登っている。ただ、自分が立ってる場所がマッターホルンの頂上だということに気がつかないだけ」
そう確信を持って言えるに至った。以下がその核心部分。

「私たちが新たに日本版を制定するのではない。

日本版は既に日本の法体系の中に存在している。

ただし、それは誰にも見える場所にではなく、法体系の穴の中に埋っている。

私たちは、それを掘り出して光を当てる必要がある。

この確認作業、それが日本版の会の仕事。

だから、それは育てる(制定する)までもなく、育っている(制定し終わっている)のを掘り出す仕事。」


以上のことは張ったりでも何でもない。当たり前のことを丹念に積み重ねて行ったら誰もが合点する普遍的な出来事。
そこで、これをもう少し理屈っぽく説明すると、以下の通り。

(1)、原発事故の救済について、311までの法体系はこれに対する備えがなく、全面的な「法の欠缺」状態にあった。
(2)、311後も、基本的にその欠缺状態を立法的に解決しようとしなかった(その場しのぎの行政的な措置で対応してきた〔ように見える〕)
(3)、その結果、311後もその欠缺状態が続いている。
(4)、その時、本来求められることは「欠缺の補充」である。つまり、
(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
(6)、その補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって補充された法規範、これをトータルに示したものが、ほかならぬ日本版そのものである。

 

2023年10月9日月曜日

第4話 福島原発事故のことを知らない者は311後のこの国が分からない(2023.10.9)

福島原発事故のことを知らない者は311後のこの国が分からない。

あの事故の惨劇

あの事故の犯罪

あの惨劇と犯罪の泥の中を歩き回り、

あの泥の中からハスの花のように出てきたのが日本版。

 

2023年10月8日日曜日

第3話 ものすごく小うるさくて、ありえないほど近い(2023.10.9)

 日本版、一見、それは「漠然としていて、山のあなたの空遠く」にあるかのように思える。

だが、ちがう。

それは「ものすごく小うるさくて、ありえないほど近く」にある。

 Extremely Fussy and Incredibly Close


参考:「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
Extremely Loud and Incredibly Close


映画、予告編
https://www.youtube.com/watch?v=MnUdMmm3JKw

第2話 吾輩は日本版である。名前はまだない。(2023.10.9)

 吾輩は日本版である。名前はまだない。

どこで生まれたか、とんと見当もつかない。

何でも薄暗い、じめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。

吾輩はここで初めて人間というものを見た。

しかもあとで聞くと、それは役人という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。

この役人というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。

 

【参考】漱石「吾輩は猫である」の冒頭(青空文庫

吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえてて食うという話である。

 

 

第1話 現代の英雄(2023.10.9)

 それは名前はない。

311後の現代の悲劇を克服しようとする無名の無数の市民のこと。

そのひとつの試みが市民立法「チェルノブイリ法日本版」

【お知らせ】5月25日にブックレットの出版

 市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のメンバー2人が編集したブックレット「わたしたちは見ているーー 原発事故の落とし前のつけ方を ーー」(以下が表紙)が今月5月25日に新曜社(> HP )から発売されます。 今年4月、育てる会設立7年目を迎えた日本版の会の振り返りと未来へ...