第1にそれは、2011年3月の福島原発事故のあと、なぜ「ふくしま集団疎開裁判」を申し立てたのかに答えて、弁護団の井戸謙一さんが、「苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々が打ち捨てられているのをそのままにしておくことはできなかったからだ」と語っていたのを聞き、その通りだと思ったからです。私にとって、日本版は「ふくしま集団疎開裁判」の継続です。目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々のことを抜きにして、脱原発なんて言っている場合ではないと思ったからです。
けれど、脱原発に熱心に取り組んでいる人たちからみると、日本版の会はなにか不純に見える。なぜなら、日本版の会では脱原発は口にせず、もっぱら原発がもたらす原発事故の問題に取り組んでいるから。脱原発かどうかを気にする人にとっては、日本版の会はむしろ原発の存続を前提としているかのようにさえ見える。
確かに、日本版の会は個々のメンバーの信念は別にして、会として脱原発を掲げない。そして、原発事故が起きた時のことだけに集中して問題解決を論じているから、見る人によっては日本版の会は原発容認派みたいに見える。
脱原発を人類が選択すべき最も重要な善(正義)と考える人にとって、原発の存在は悪(不正義)であり、そこから見ると、原発を前提にしているかのように見える日本版の会はむしろ悪(不正義)に加担しているのではないかと訝られたとしても不思議ではない。
では、なぜ、このような不純だと非難されるような振舞いを日本版の会はしているのか。
それは、第1に、上に書いた通り、目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々がいるからです。
のみならず、さらにもう一つ理由があります。それは、私たちは善を知覚するためには、善を通じてではなく、善とは反対の、悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できる、そう(私が)考えているからです。
つまり、私たちは善(脱原発)を知覚するためには、善(脱原発)を通じてではなく、善とは反対の、悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じてのみ準備できると考えているからです。
この立場を明らかにしたのがドイツの作家ミヒャエル・エンデ、ソ連の映像監督タフコフスキーたちだ。彼等は、人間という矛盾に満ちた厄介な生き物の全体像をつぶさに観察した末に、人間に対しこうした認識を獲得した。 また、本来、美を追求するはずの芸術がなにゆえ、他方で、シェークスピアの「リア王」や「リチャード三世」ひとつとってもそうであるが、ゴヤの絵をひとつとってもそうであるように、これでもかと言わんばかりに、かくも人間の醜さ、虚偽を、かくも悪党の悪党振りを情け容赦なく描くのか。その訳は、芸術は、人々の中に善を知覚させるためには、その反対の悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できることをシェークスピアたちは知っていたからです。
日本版の取組みも、或る意味で、悪党の中のとびきりの悪党を描き切った「リチャード三世」やゴヤの絵に似ている。原発事故を契機にそれまでうわべで取り繕っていた連中が仮面をかなぐり捨てて、あらんかぎりの耐え難いほどの悪や犯罪に走る。その悪党のなれの果てをトコトン追求することを通じて、つまり悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じて人々の中に善(脱原発)を知覚させるのである。
【参考】
「リチャード三世」の解説ー>こちら
ゴヤの絵



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