これは今まで誰も、当の私ですら思い描いたことのなかったこと。先週、北茨城市に滞在して、家の補修工事をやっている最中に、ふと想到したこと。しかし、ひとたびこれに気がついた時、その瞬間、その正しさを、私の身体の中で、全身全霊で確信するに至った。以下、その核心部分だけを示す。
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前置き
日本版の制定を世の中に最初に呼びかけたお母さんは、何度も呟いた。
「日本版を制定するのはマッターホルンの頂上に登るようなもの」
それくらい大変なんですという思いを込めて。
その時は、きっとそうなんだろうなと思い、黙って聞いていた。 それから6年経った今、
「それは勘違い。なぜなら、私たちはすでにもうマッターホルンの頂上に登っている。ただ、自分が立ってる場所がマッターホルンの頂上だということに気がつかないだけ」
そう確信を持って言えるに至った。以下がその核心部分。
「私たちが新たに日本版を制定するのではない。
日本版は既に日本の法体系の中に存在している。
ただし、それは誰にも見える場所にではなく、法体系の穴の中に埋っている。
私たちは、それを掘り出して光を当てる必要がある。
この確認作業、それが日本版の会の仕事。
だから、それは育てる(制定する)までもなく、育っている(制定し終わっている)のを掘り出す仕事。」
以上のことは張ったりでも何でもない。当たり前のことを丹念に積み重ねて行ったら誰もが合点する普遍的な出来事。
そこで、これをもう少し理屈っぽく説明すると、以下の通り。
(1)、原発事故の救済について、311までの法体系はこれに対する備えがなく、全面的な「法の欠缺」状態にあった。
(2)、311後も、基本的にその欠缺状態を立法的に解決しようとしなかった(その場しのぎの行政的な措置で対応してきた〔ように見える〕)
(3)、その結果、311後もその欠缺状態が続いている。
(4)、その時、本来求められることは「欠缺の補充」である。つまり、
(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
(6)、その補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって補充された法規範、これをトータルに示したものが、ほかならぬ日本版そのものである。
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