2024年5月1日水曜日

【お知らせ】5月25日にブックレットの出版

 市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のメンバー2人が編集したブックレット「わたしたちは見ているーー原発事故の落とし前のつけ方をーー」(以下が表紙)が今月5月25日に新曜社(>HP)から発売されます。
今年4月、育てる会設立7年目を迎えた日本版の会の振り返りと未来への展望が詰まった書籍です。
以下、編集者のコメント(つぶやき)と目次(一部、立ち読み可)を載せました。

311で未曾有の天災と人災に見舞われた日本社会、そこから見せかけではない真の復興を願っている人たちが、一度、手にとって頂けたら幸いです。


 ◆編集者のつぶやき

 最初、私はブックレット編集に乗り気でなかった。311後の日本社会ーーそれは見えない暗黒社会ーーという壁に負け犬の遠吠えをしているだけとしか思えなかったから。しかしいざ始めてみると、思っても見ない事態に遭遇しました。311後の見えない暗黒の日本社会に風穴を開ける光が見えてきたからです。一言でそれは「市民運動の脱政治」、そして「政治運動から人権運動へのシフト」。
他方で、日本では人権が根付かないという積年の課題があることも承知していました。だから、このブックレットは「認識において、悲観主義」で書かれています。だが、私たちはその認識にとどまらない。そこから実行に踏み出す、「意志において、楽観主義」として、今回のブックレット編集という実践で「一寸先は闇」の経験をして、その闇から光と出会ったように。
そして、ささやかでもこの楽観主義の勝利を経験できたのは、ひとえに同じ編集者の小川晃弘さんのおかげです、そして、1年前、不幸にして先立った、私と同学年で私にとっての朋輩、坂本龍一の見えない激励のおかげです(>坂本龍一 その可能性の中心)。

その意味で、このブックレットは市民の自己実現、その可能性の中心を追求した書物です。                             (2024.5.2.柳原敏夫)                                                                  

 このブックレットは、 ここ数年間の本会正会員のメーリングリストや学習会での議論を編集して作成しました。中心となるメッセージは、原発事故の問題について、新しい解き方を提示したことだと思います。原発を推進する、原発に反対する、そんな二項対立を超えて、原発事故へのアプローチを、「人権」をキーワードに考えることを提案しています。「人権」というと、難しく考えてしまうかもしれませんが、このブックレットでは、「自分の命を守る権利」、そして「他の人の命も等しく守る権利」と、分かりやすく定義しています。新しい解法に興味のある方、このブックレットをぜひ手に取ってみてくだい。                                                                                                       (2024.5.29 小川晃弘


目次 

はじめに

生き直す-原発事故後の社会を生き直す-             柳原 敏夫

コラム 一般市民が法令の定めを超えて被曝させられる謂れはない  小出 裕章


第1章:なぜ「チェルノブイリ法日本版」が必要なのでしょうか

「チェルノブイリ法」とは?

なぜ「日本版」が必要だと考えるのでしょうか

万が一の際、すべての人を救う救済法を作りたい

憲法9条と「チェルノブイリ法」

「チェルノブイリ法日本版」制定の目的は人権保障

コラム 「チェルノブイリ法日本版」を作っていきませんか?     わかな


第2章:「人権」を取り戻すための「チェルノブイリ法日本版」

放射能災害に対する対策は311前も後も完全に「ノールール」状態

被災者の「人権」を法に定めると国家に責任と義務が生じる

「人権」は一瞬たりとも途切れることがない

国際人権法・社会権規約を直接適用する

国際人権法にある「人民の自決の権利」

国際人権法が311後の日本社会を変える

コラム   ぼくが「チェルノブイリ法日本版」を希う理由      柴原 洋一 


第3章:私たちのビジョンー「チェルノブイリ法日本版」は日本社会に何をもたらすのか

理不尽に屈しない

自分のいのちの主人公になる

まず「逃げる」こと

<実践への手引き> 「市民放射能測定システム」の立ち上げ    大庭 有二

<実践への手引き> 安定ヨウ素剤を備えること          牛山 元美

市民参加型の公共事業を創設する

コラム 「チェルノブイリ法日本版」がないための苦しみ     遠藤のぶ子


第4章:どう実現させるのかー市民立法を目指す

新しい酒(「チェルノブイリ法日本版」)は新しい革袋(市民立法)に盛れ

<実践への手引き>  署名を集める           酒田 雅人

「市民が育てる『チェルノブイリ法日本版』の会」の結成

<実践への手引き> 仲間を見つける          岡田 俊子

東京・杉並で始まった水爆禁止署名運動に学ぶ

「情報公開法」制定の経験に学ぶ

ICANの経験に学ぶ

「生ける法」―市民立法のエッセンス

コラム 希望として「チェルノブイリ法日本版」    小川 晃弘

第5章:「命を守る未来の話」―ティティラットさんに聞く

あとがき                       柳原 敏夫

「チェルノブイリ法日本版」条例案サンプル

編集にあたり

2024年3月16日土曜日

【第7話】市民立法とは何か。答え:日本版の取り組みを始めた瞬間から、実は日本版は制定されている、ただし、それは卵子の細胞分裂から始まる生命の誕生のようにジワジワと生成途上のものとして。なぜなら法とはもともと絶えず生成の過程にある生成法だから。

 0、結論

日本版の市民立法は、議会や国会で法案が議決されて初めて法律が制定される、とは考えない。 日本版の取り組みを始めた瞬間から、実は日本版は制定されていると考える。ただし、それは卵子の細胞分裂から始める生命の誕生のようにジワジワと生成途上のものとして。

なぜなら法とは以下に述べる通り、もともと絶えず生成の過程にある生成法だから。

 1、法の本質をめぐる2つの考え方の対立。

一方は国家が制定する成文法。制定法こそ法の中心。

他方は社会自体。様々な社会現象と交換する中で生成される「生ける法」こそ法の中心。

 後者は法社会学の創始者の1人オイゲン・エールリッヒが提唱した考え方。

2、法の発展、変化の本質についても、1の対立が反映。

 前者の制定法を法の中心と考える立場からは、法が変化するのは制定もしくは改正のとき、制定もしくは改正しない限り、法は変わらないと考える。

後者の「生ける法」を法の中心と考える立場からは、法は生き物のように、24時間いつでも生々流転、変化・生成の途上にあると考える。

3、この対立をどう解いたらよいか。

結局、この対立は法の価値はどこから来るのかという問題に帰着する。
前者は、法の価値を付与できるのは法律を制定する国家だけであると考える。

後者は、法の価値を付与できるのは社会自体。法律を制定する国家だけでは決められない。制定した法律を社会の側がどう受け取るのか、この社会自体の様々な社会現象と交換する中で法の価値が決められていく。

4、この解き方から導かれる結論

前者は、法律を実現するのは唯一の立法機関とされる国会(自治体なら議会)だけ。
立法機関に唯我独尊的な絶対的な地位を認めることになる。

後者は、法律を実現するのは社会自体。つまり社会を構成する様々な人々の声を調整総合して法律が実現することになる。

 どちらが現実の事態をより合理的に説明できるだろうか。例えば地雷禁止条約や核兵器禁止条約が市民立法で成立し、主導した市民団体がノーベル平和賞を受賞したという事実は前者からは説明がつかないのではないか。或いは日本で情報公開法が制定されたのはもともと制定に反対だった政府与党の力によるのではなく、政府与党の反対を押し切って成立させた市民の力によるものである。これもまた前者からは説明がつかないのではないか。


5、社会の基本概念をめぐる同様の問い

 法の価値はどこから来るのかというという問いは、経済における商品の価値、言語学における言語の意味はどこから来るのかという問いとパラレルの関係にある。

そう考える立場に立つと、

マルクスとソシュールが主張したように、商品も言語も自分だけでその価値や意味を決定することはできず、他者との「交換」の中でしかその価値や意味は決定されないと考える。そのとき、法の価値もまた他の社会的事実と交換する中でしか決定されないことが自然と導かれる。それはまさに法の本質を社会自体に、「交換」に見出す考えである。 

6、追伸ーー柄谷行人の311直後のスピーチと日本版への応用

311直後に柄谷行人がデモでこうスピーチした。
デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです

これは、法の本質を「生成法」「生ける法」と考える立場からはごく自然の帰結。
むしろ、彼は法の本質を「生成法」「生ける法」と考えているから、このような見方がおのずと出来るのだ。この見方によれば、日本版についても次のように言うことができる。

 「日本版の取組みを始めたことによってそれだけで社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、日本版に着手することによって、日本の社会は、人々が日本版に着手する社会に変わるからで、それが「生ける法」「生成法」としての日本版を形成するのです

2023年10月10日火曜日

第6話 日本版の会はなぜ脱原発に向わずに、原発を前提とした原発事故の問題に取り組むのか(23.10.10)

第1にそれは、2011年3月の福島原発事故のあと、なぜ「ふくしま集団疎開裁判」を申し立てたのかに答えて、弁護団の井戸謙一さんが、「苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々が打ち捨てられているのをそのままにしておくことはできなかったからだ」と語っていたのを聞き、その通りだと思ったからです。私にとって、日本版は「ふくしま集団疎開裁判」の継続です。目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々のことを抜きにして、脱原発なんて言っている場合ではないと思ったからです。 

けれど、脱原発に熱心に取り組んでいる人たちからみると、日本版の会はなにか不純に見える。なぜなら、日本版の会では脱原発は口にせず、もっぱら原発がもたらす原発事故の問題に取り組んでいるから。脱原発かどうかを気にする人にとっては、日本版の会はむしろ原発の存続を前提としているかのようにさえ見える。

確かに、日本版の会は個々のメンバーの信念は別にして、会として脱原発を掲げない。そして、原発事故が起きた時のことだけに集中して問題解決を論じているから、見る人によっては日本版の会は原発容認派みたいに見える。

脱原発を人類が選択すべき最も重要な善(正義)と考える人にとって、原発の存在は悪(不正義)であり、そこから見ると、原発を前提にしているかのように見える日本版の会はむしろ悪(不正義)に加担しているのではないかと訝られたとしても不思議ではない。

では、なぜ、このような不純だと非難されるような振舞いを日本版の会はしているのか。

それは、第1に、上に書いた通り、目の前で、苦しみの中で救済を求めている福島の多くの人々がいるからです。
のみならず、さらにもう一つ理由があります。それは、私たちは善を知覚するためには、善を通じてではなく、善とは反対の、悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できる、そう(私が)考えているからです。

つまり、私たちは善(脱原発)を知覚するためには、善(脱原発)を通じてではなく、善とは反対の、悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じてのみ準備できると考えているからです。

この立場を明らかにしたのがドイツの作家ミヒャエル・エンデ、ソ連の映像監督タフコフスキーたちだ。彼等は、人間という矛盾に満ちた厄介な生き物の全体像をつぶさに観察した末に、人間に対しこうした認識を獲得した。 また、本来、美を追求するはずの芸術がなにゆえ、他方で、シェークスピアの「リア王」や「リチャード三世」ひとつとってもそうであるが、ゴヤの絵をひとつとってもそうであるように、これでもかと言わんばかりに、かくも人間の醜さ、虚偽を、かくも悪党の悪党振りを情け容赦なく描くのか。その訳は、芸術は、人々の中に善を知覚させるためには、その反対の悪とその破局やカタストロフィーを通じてのみ準備できることをシェークスピアたちは知っていたからです。

日本版の取組みも、或る意味で、悪党の中のとびきりの悪党を描き切った「リチャード三世」やゴヤの絵に似ている。原発事故を契機にそれまでうわべで取り繕っていた連中が仮面をかなぐり捨てて、あらんかぎりの耐え難いほどの悪や犯罪に走る。その悪党のなれの果てをトコトン追求することを通じて、つまり悪(原発の存在)とその破局やカタストロフィー(原発事故)を通じて人々の中に善(脱原発)を知覚させるのである。

 【参考】

「リチャード三世」の解説ー>こちら

 ゴヤの絵




第5話(増補版) 日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけだ。(23.10.10→10.14)

これは今まで誰も、当の私ですら思い描いたことのなかったこと。先週、北茨城市に滞在して、家の補修工事をやっている最中に、ふと想到したこと。しかし、ひとたびこれに気がついた時、その瞬間、その正しさを、私の身体の中で、全身全霊で確信するに至った。以下、その核心部分だけを示す。

*************************

前置き
日本版の制定を世の中に最初に呼びかけたお母さんは、何度も呟いた。
「日本版を制定するのはマッターホルンの頂上に登るようなもの」
それくらい大変なんですという思いを込めて。

その時は、きっとそうなんだろうなと思い、黙って聞いていた。 それから6年経った今、
「それは勘違い。なぜなら、私たちはすでにもうマッターホルンの頂上に登っている。ただ、自分が立ってる場所がマッターホルンの頂上だということに気がつかないだけ」
そう確信を持って言えるに至った。以下がその核心部分。

「私たちが新たに日本版を制定するのではない。

日本版は既に日本の法体系の中に存在している。

ただし、それは誰にも見える場所にではなく、法体系の穴の中に埋っている。

私たちは、それを掘り出して光を当てる必要がある。

この確認作業、それが日本版の会の仕事。

だから、それは育てる(制定する)までもなく、育っている(制定し終わっている)のを掘り出す仕事。」


以上のことは張ったりでも何でもない。当たり前のことを丹念に積み重ねて行ったら誰もが合点する普遍的な出来事。
そこで、これをもう少し理屈っぽく説明すると、以下の通り。

(1)、原発事故の救済について、311までの法体系はこれに対する備えがなく、全面的な「法の欠缺」状態にあった。
(2)、311後も、基本的にその欠缺状態を立法的に解決しようとしなかった(その場しのぎの行政的な措置で対応してきた〔ように見える〕)
(3)、その結果、311後もその欠缺状態が続いている。
(4)、その時、本来求められることは「欠缺の補充」である。つまり、
(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
(6)、その補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって補充された法規範、これをトータルに示したものが、ほかならぬ日本版そのものである。

 

2023年10月9日月曜日

第4話 福島原発事故のことを知らない者は311後のこの国が分からない(2023.10.9)

福島原発事故のことを知らない者は311後のこの国が分からない。

あの事故の惨劇

あの事故の犯罪

あの惨劇と犯罪の泥の中を歩き回り、

あの泥の中からハスの花のように出てきたのが日本版。

 

2023年10月8日日曜日

第3話 ものすごく小うるさくて、ありえないほど近い(2023.10.9)

 日本版、一見、それは「漠然としていて、山のあなたの空遠く」にあるかのように思える。

だが、ちがう。

それは「ものすごく小うるさくて、ありえないほど近く」にある。

 Extremely Fussy and Incredibly Close


参考:「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
Extremely Loud and Incredibly Close


映画、予告編
https://www.youtube.com/watch?v=MnUdMmm3JKw

第2話 吾輩は日本版である。名前はまだない。(2023.10.9)

 吾輩は日本版である。名前はまだない。

どこで生まれたか、とんと見当もつかない。

何でも薄暗い、じめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。

吾輩はここで初めて人間というものを見た。

しかもあとで聞くと、それは役人という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。

この役人というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。

 

【参考】漱石「吾輩は猫である」の冒頭(青空文庫

吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々をつかまえてて食うという話である。

 

 

【お知らせ】5月25日にブックレットの出版

 市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のメンバー2人が編集したブックレット「わたしたちは見ているーー 原発事故の落とし前のつけ方を ーー」(以下が表紙)が今月5月25日に新曜社(> HP )から発売されます。 今年4月、育てる会設立7年目を迎えた日本版の会の振り返りと未来へ...